由緒 | 保元年間(1156ごろ)、平忠度が出雲国の守護職を勤めていた時、将である平景清(悪七兵衛といい剛勇の武将であった)が出雲国に下向し、城を島根県能義郡富田山に築こうとした際、眼病にかかり日を追って重くなった。そこで菅神に一心に祈っていたところ、夢の中でお告げがあり、日を待たずに全快した。そこで、ご神威をかしこみ報賽(菅神へのお礼)のため城内に鎮守として社殿を建立し崇敬した。以後、富田城内に長くおまつりされていた。その後、堀尾吉晴公が慶長年間(1600ごろ)富田城を松江の亀田山(松江城)へ移すことになった。しかし、吉晴公は事業半ばで死去、事業は堀尾山城守忠晴公に受け継がれた。いよいよ城の移転の際、忠晴公は、白潟に地を選び、天満宮も奉遷され、現在地に奉斎されることになった。(当時は、この地に小松が群生していたので、小松原天満宮とも称されていたようだが、現在は白潟の地名から、白潟天満宮と通称されている。)奉遷後は、歴代松江藩主の尊崇を受け、社領も与えられ藩費により造営、維持が行われていた。廃藩後は門前町である天神町をはじめとする崇敬者により維持されてきた。江戸時代以来庶民の崇敬があつく、学問の大神として広く信仰されており、7月25日の例大祭は現在に至るまで多くの参拝客でにぎや賑わう。受験祈願・初宮詣・七五三のほか、家内安全・厄除け祈願・諸業繁栄の祈願のためのお参りも多い。明治39年には神饌幣帛料供進神社に指定され、現在島根県神社庁指定の特別神社に列せられている。 |
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