由緒 | 当社は、斉明天皇白鳳6年(655)宇佐八幡宮から現在地に勧請し八幡宮と称えたと伝えられる。 和銅6年(713)備前国から分国した『美作国』誕生により、同国最南端に位置し、領内鎮護の神として崇敬され、一宮志呂神社、二宮厨神社とともに「弓削の郷三社」の一つに加えられ、前述2社とともに弓削郷27ヶ村を氏子とした。 中世時代から福渡は、『深渡し』ともいい旭川往来の船着き場として賑わい、津山街道の中間地点でもあり宿場町としても発展した。 当社の信仰も、航行安全、交通安全、厄災消除の守り神として崇められた。この信仰は江戸時代まで続き、正保年間(1645頃)美作国主森長継公は殊の外崇敬篤く、社殿を補修し境内山林4千8百坪を神領と定め樹木は神木として伐採不可、免税とした。 又、天領時代においても代官・郡奉行・寺社奉行の崇敬篤く、京都伏見宮、村雲宮の御祈願所に定められ、菊花御紋章付き桃灯一対を寄進せられた。 明和年間(1765頃)から菊花御紋章の使用を允許せられ、瑞垣門築造のおり、箱塀に下賜されたものが現存している。 明治6年村社に列格し八幡神社と改称した。現在宗教法人となり福渡地区310戸の氏子を護っている。 |
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