由緒 | 本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺(みおうじ)を草創するや山門鎮守の神として天平勝宝2年大洞穴の頂上本宮という所に伊弉諾伊弉冉命を勧請したものである。 大同2年弘法大使三尾寺を中興すると本社も隆昌を来し、淳和天皇天長年間に社殿を築いた。当時洞内に石鐘乳(いしのちち)と称する薬石を産し名声を上げた。清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯嗣を備中に遣し、此の洞穴から石鐘乳(いしのちち)を採った。 醍醐天皇延喜5年の延喜式神名帳備中18社の中に英賀郡(あがぐん)呰部郷(あざへごう)比売坂鐘乳穴(ひめさかかなちのあな)神社として記載されたる由緒正しい神社であり、所謂式内と称する崇厳なる神である。 その後本宮の東方平地に社殿を築き日め宮(ひめみや)明神として遷座し、大巳貴命を祀る。爾来三尾寺が別当職として本社の祭典や社人の管理を行い、寛永4年前殿を築き文化12年4月本殿を再建立した。 これが現存している社殿である。明治に入ると神仏分離が行われ、明治5年村社に列し社掌を任命して神社を管理させた。明治40年5月神饌幣帛料供進神社に指定され、同42年拝殿の改築及び社務所の新築を行い、無格社10社を合祀し、社運益々隆盛に向かった。 爾来氏子一同由緒正しい式内社であるので県社に昇格しょうと協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り昭和5年10月県社となる。 |
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