由緒 | 本社は旧哲多郡西方村の産土神社として勧請した。 第55代文徳天皇天安2年寅8月15日豊前国宇佐八幡神社の御分霊を勧請し、西方の内、江原の平地に社殿を建立して鎮座された。(本殿梁行5尺桁行6尺、拝殿梁行8尺桁行9尺)奉斎者は本村の西江甚内藤原重次、同男善兵衛重信の両人である。 爾後元久3年3月15日字江原(現在の地)に社殿を造営し、遷座する。この建立者は崇敬者であるYUZURIHA城主今田上野守である。貞享4年卯7月29日夜炎上したが元禄元年辰9月崇敬者である松山領主水谷出羽守勝明公により再建され現在に至る。 本社は旧西方村をはじめ、井村、坂本村、千屋村、高瀬村、釜村、三坂村の7箇村にある72社の大社又7箇村の大氏神社と称し崇敬された。 大祭は7箇村の輪番を以て当たり祭費、修理費は7箇村の篤石高5275石9斗5升4合5勺を賦課し庄屋役が之を徴収し本神社の神官に送納されていたが、明治以降は廃止になった。 本社は誉田別命を主祭神とし境内神社は海神社(豊玉姫命)1社と村内から合祀した社元神社、加茂神社、修理神社、山神社、若宮社、大宰神社、三柱神社を配祀し、天下泰平、国土安全、武運長久、五穀豊穣の守護神として崇敬されている。(注)文中のYUZURIHAは、「木」偏に「葉」です。 |
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