由緒 | 当宮は世にいう葉田葦守宮で応神天皇行幸の旧跡である。葉田葦守は応神天皇の皇妃吉備兄媛の郷里であり、応神天皇の22年9月この地に御臨幸になった。 応神天皇はこの行幸において、兄媛命の兄御友別命及びその子、兄弟のもてなしを受けたことを大変喜ばれ、吉備の地を分国し、長子の稲速分(下道臣の祖)に川嶋県、次子仲彦(上道、香屋臣の祖)に上道県、末子弟彦(三野臣の祖)に三野県、兄の浦凝別(苑臣の祖)に苑県、弟の鴨別(笠臣の祖)に波区芸県を与えられた。 このように当宮は吉備の国の建国にゆかりのある宮である。天皇崩御の後、御友別命の子中津彦命(仲彦)は、天皇の仁徳を追慕し、天皇の神霊をその行宮跡に斎き祀り、葉田葦守宮と称したのが現葦守八幡宮である。 爾来中津彦命の子孫で、葦守に居を構えた香屋臣(賀陽氏)は、一族中から相つぎ神主を送り出し足利氏末年に至るまで連綿と奉仕した。 葦守八幡宮は代々の守、介や武将からも崇められたが、中でも豊臣秀頼は慶長12年奉行小出大和守をもって神鏡一面を奉納され、豊臣家再興を祈願している。 平安時代末期の嘉応元年(1169)につくられた足守荘園図には庄の中央から少し北寄りの現葦守八幡宮の地に、八満山と八幡宮の文字が見え、社と鳥居が図示され鎮守の神として庄の信仰の中心になっていた当時の様子がうかがえる。 慶長年中従三位木下家定がこの地に移封後約250年間は同家累代藩主の産土神として、また領内総鎮守として、格別尊崇され、社殿の修理、祭典その他の費用に至るまで寄進された。 |
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