由緒 | 当社は大宝元年(701年)豊前国宇佐ノ宮よりの勧請と伝える。古来通生庄12ケ村の総鎮守として神宮寺の社僧が奉仕した。神宮寺般若院の旧記によれば、延暦23年(804年)坂上田村麿将軍が勅命によって喩伽山の賊徒を討ち、平定の報賽として神封150戸を寄せ、その後建治2年(1276年)新熊野山神領の分与が行われ(尊瀧院文書)、弘安2年(1279年)社頭80石の朱印状を受けた。室町時代の初め応永28年(1421年)、塩生の住人松井紀ノ義泰が石鳥居を奉納し、永享7年(1435年)より祭礼日を市日と定めて市を開いた。当日は馬場に於て流鏑馬も行われたので、近郷からの参拝者や商人で賑った。常山城主の三村上野介高徳は深く当社を信仰して奉幣を怠らず、弘治3年(1555年)木鳥居2基に名前を刻んで建立した。天正3年(1575年)當山合戦の前哨戦として通生の湊山城が吉川、小早川両軍の攻撃を受けて落城し、その戦火により八幡宮の社殿と神宮寺の堂塔は悉く炎上して烏有に帰したが、その年の末から同5年の間に全社殿再建復興された。慶長10年(1605年)下津井城主池田河内守長政が社頭25石を寄進し、以後歴代の岡山藩主もこれに則ったが、寛文6年(1666年)の神佛引き分けによって社領15石、寺領10石となり初めて祠官が任ぜられた。明治7年(1874年)郷社に列せられ、昭和27年宗教法人になった。 |
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