由緒 | 当社は、鎌倉時代に美作の守護職(大名)の館(やかた)のあったところで、境内全体が国指定の史跡となっている(大正11年指定)。 元弘のむかし、第96代後醍醐天皇が時の執権北条高時のために隠岐に流される途中、この館にお泊まりになった。時に、備前の人、児島備後三郎高徳は、天皇を賊から奪い勤王の義兵をあげようとして、船坂山や杉坂峠で一行を待ちかまえたが、みな失敗に終り、単身この館に忍びこもうと企てたが、これまた警戒厳重で成功せず、折から館の門の前に春雨にぬれて美しく咲いていた桜の幹を削り、「天莫空勾践時非無范蠡(天勾践を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず)」と10字の詩を書いて立ち去った。 これは,越王勾践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)と戦って敗れ、とらわれの身となっていたのを、忠臣范蠡(はんれい)らの努力によって呉を破ることができた故事によるもので、後醍醐天皇を勾践に、高徳自身を范蠡にたとえて、帝(みかど)をお慰めしたわけである。翌朝、この詩を見つけた警固の賊兵は、その意味がわからず、ひとり天皇のみ解し、ここにも忠義な家来がいたかと、末たのもしく思しめされたということである。 この故事は、「太平記」に記載せられて、長く国民の胸に深い感動を与えてきたのであるが江戸時代になって、津山藩の家老長尾勝明は、荒廃していた館あとに碑を建立して、高徳の誠忠を顕彰した。これは、南朝忠臣のモニュメントとしては全国で2番目に古く、湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」よりも4年はやく建てられたものである。 その後、幕末になって、ここに神社を造立しようという声がおこり、国学者道家大門(どうけ・ひろかど 1831~1890)らの建議により、藩主を経て朝廷の許可を受け、勅号の「作楽神社」という社名が下された。 こうして明治2年に神社創建となったのである。道家大門は、作事奉行として宮の造営にあたり、また初代の祠官として生涯を神明に奉仕した。現在の社殿は大正15年再建のものであり、社宝には来国行の名刀や児島高徳の木像がある。約1万坪の境内には文学碑なども多く、地方文化の宝庫、民族精神の拠点となっている。 |
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