由緒 | 当社は、往古から鶴山頂上(現在の津山城跡)に鎮座していたが、慶長8年森忠政公が美作守として美作一国を領して入府し城下町建設にとりかかり、この山を城地に選定、築城するに当たり、先ず当社を一旦、城南覗山(のぞきやま)に遷し、その後慶長13年現在地、山北八子 不知夜山(やまきたやご いざよいやま)を神宝の地と占い、又御真意と符合することから八幡大神を崇敬し御社殿を造営して再遷座された。 その後寛文9年には、森家二代藩主長継公により壮麗極彩色の御社殿を建立し、社領として50石を寄進するなど森・松平両家代々と縁深き神社で藩士からも文武の祖神として崇敬された。 社殿の彩色は創建当時よりは薄れているが、三手先の組み物から軒まわりの華麗さは他に例を見ないもので、江戸時代初期の建築様式として貴重なものである。 昭和31年4月1日拝殿、釣殿、神供所が末社薬祖神社と共に県重要文化財の指定を受け、昭和55年5月31日には御本殿が国指定重要文化財の指定を受けた。 慶長15年・寛永12年・寛文9年・天明7年・文政5年・嘉永3年等の棟札が現存している。 現在は津山地方北部の大産土神として崇敬されている。また、鶴山東山麓宮川沿いに鎮座せる千代稲荷(せんだいいなり)神社は、当神社の摂社であった。 |
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