神社ID/コード | 6509 | 7301002 |
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神社名/通称 | 石門別神社 | とかくし神社 |
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(フリガナ) | イワトワケジンジャ | トカクシジンジャ |
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郵便番号 | 700-0912 | 鎮座地 | 岡山市北区大供表町3-30 |
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氏子地域 | 岡山市(大供1丁目、2丁目、3丁目、大供表町1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、鹿田町、鹿田本町、大供本町、西之町、厚生町1丁目、2丁目、3丁目、新屋敷、大雲寺町) |
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電話番号 | 086-222-4927 | FAX | | 携帯電話 | |
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主な祭典 | 春季例大祭 茅の輪祭 秋季例大祭 | 祭典日 | 5月12日13日 7月31日 10月12日13日 |
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特殊神事 | |
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お知らせ | |
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旧社格 | 村社 | 式内社 | | 御朱印 | |
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祈祷 | | 出張祭 | | 神葬祭 | |
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結婚式 | | 宝物館 | | その他 | |
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宮司名 | | (本務/兼務) | | 連絡先 | 086-222-4927 |
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主祭神 | 天石門別命 |
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フリガナ | アメノイワトワケノミコト |
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御神徳 | 道開き 方除け |
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由緒 | 当社は御野郡伊福郷の大安寺山に祀られており、延喜6年(906)正月に現在の場所へ遷座したと伝えられている。 『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様に、この神社は、はやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そして江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになったようである。 例えば、元文4年(1739)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮 大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり』と見える。 しかし、その後寛政年間に岡山藩士大澤惟貞によって編纂された『吉備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治3年の『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的なものとはならなかった様子がうかがわれる。『特選神社名牒』にいくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略記』が記してをり(昭和13年『岡山市史』第5巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政6年)はこの時廃寺となった寺についての寶永4年(1707)の調査資料をあげている。それには「住持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。 社領について『備前國式内書上録』(明治初年)は寛保年間の社伝(現在その行方は不明)に記された古老の申し伝へとして「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代、天正文禄の比は社領纔25石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確認できない。江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。 『荘園資料』などによると、石門別神社の鎮座する大供付近は藤原氏の氏長者に属する殿下渡領となった鹿田荘の荘園に含まれていたと考えられている。 |
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駐車場有無 | 有 | 台数 | 20 | トイレ | |
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記載 | |
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最寄駅 | 岡山駅から南南西へ約1Km岡山市水道局交差点を北に約50m |
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名所・名物 | |
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地図 | |
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HP(主) | | 神社写真/HP(副) | |
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御影 |
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