由緒 | 当社は神武の頃「鷺の森明神宮」として勧請された。 往古、神の森より足を病んだ白鷺が、昼は沢田にたたずみ、夜は神の森に立ち帰った。郷人が白鷺のたたずむ跡にいってみれば、地中より薬湯がわきでており、郷人は温泉場となし塩湯郷と称した。 諸人、入浴を試み始めた頃より白鷺が姿をみせなくなったので、これは神の森の祭神である少彦名命が白鷺を使わして薬湯を人々に知らしめたとして霊験を感じ、以降鷺の森明神と称され尊崇された。 美作鏡写し(本社所存)によれば、この噂が地検を行った僧行基により都に伝えられ聖武天皇(724~749)が天平10年勅を下して社殿の新築、奉幣を下された。天平12年には、封戸12戸、位田6町を下された。その繁栄ぶりは朝日の豊栄昇るがごときであったといわれる。 世が変わり乱世の時代、大永年間(1521~1527足利幕府)三星城主後藤基兼が当社を一宮として、前田式部承を京都から呼び寄せ文学の師及神官を命じ、後藤家守護神社として崇敬し、隆盛を極めた。しかし毛利勢の中国平定で宇喜多秀家が三星城を落城させたことにより没落、本神社も消失し、神宝、旧記を失った。 その後美作が森家になるころ、郷人により社は再建され村人の氏神として親しく崇められている。秋の大祭に大傘桙が子供を従えて村道を練り歩く姿は有名である。また、神社には平賀元義と親交のあった神職が居り、ゆかりの品が多数保存されている。 |
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