由緒 | 当社は第66代一条天皇の御代、長保年間中国地方に兇徒蜂起し擾乱を極めた。 中でも金倉源吾を首長とする一党は、その猛威四隣を圧し、朝威を恐れなかったので名越常陸守に討伐を命ぜられ、直ちに常陸守手勢を引具して討手に向った。 これに先立って山城国男山八幡宮に詣で「某苟くも弓馬の家に生れ、今度朝命を受けしも苦戦は免れず、伏して願わくば神威を藉り彼に勝つ事を一時に決せしめ給え、神力の冥助により彼の兇賊を討ち従える事が叶わば、必ず御神霊を分ち奉りて我国に移斎し、子孫に伝え崇敬し奉る」と祈願した。 即ち上箭(矢)を祓って、御室に奉献し、直ちに中国に下った。戦いは数度に及び神力が味方を守護し、遂に賊徒を平定、首長以下数十名を擒にして、京に上り、その功は最も大なるものと賞辞を賜り、油野八幡原の地に勧請した。 その後、第95代後醍醐天皇の御代、正中元年甲子年、開拓の始祖神を祀るこの宮の尾を神域となして遷座し、爾後日尾山八幡神社と尊称した。 旧哲多郡上神代村、下神代村、油野村は、第93代後伏見帝正安年間に上、下神代村に分かれ、更に元禄年間に下神代と油野を分ち、三村の一宮となった。当八幡宮は、その大氏神として尊崇篤く、その神威は近郷に及んだ。 明治12年村社に列格した。大正2年、勅令に基づき県令をもって、神饌幣帛料供進神社に指定された。 |
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