由緒 | 本神社は記旧或いは古老の伝えるところによると、往古、九名村の人達は筑前宗像の三女神の崇敬が篤く、中山西ノ谷に勧請して氏神とした。 祭神は田心姫命、瑞津姫命、市杵嶋姫命の3柱である。 元禄15年(1682)冬当村の柚ノ木与兵衛が氏宮を寄進建立した。その頃寺の勢力が強く、9名の法華(日蓮)宗妙光寺の僧侶は八幡神社の祭事に干渉し、神前で読経したことから、当時の神主と論争が起こっている。 その後、享和2年(1802)の頃は妙見八幡宮と称していたが、明治9年以後は妙見の名を廃し、八幡神社と社名を改めた。 近世では例祭の氏子当番は世襲制をとり、1地区から1戸あるいは数戸を定めその地区氏子を代表して祭事を担当した。これを「名の者」という。 上絵具名地区は表(屋号)、下絵具名地区は向、中山地区は田渕・上岡田・下中屋・後の内から2戸、友成地区は伊達・野田、三田地区は窪、宗金地区は表両家、鳴石地区は鳴、秋年地区は向などである。「名の者」成立時は全てを九つの名として輪番で当番をつとめたと思われ、この九つの名株が代表する村として九村の村名が生まれたと言われている。 寛政6年(1794)10月現在の社殿を建立し、寛政11年(1799)己未9月石鳥居を建立、享和2年(1802)9月手水石、灯籠等を設置している。 安政6年(1859)以前から敷地及び山林は領主撫川藩主戸川主馬助から寄進され除地となり、明治11年以後は官有地に変わり同39年国から払い下げを受け、大正3年1月23日神社所有地となった。 九名の八幡神社は村名の通り、古くは九名株があって当番をつとめていたが、明治末期の名株廃止時には、11名株が当番を勤めていた。名株を持っていた家は「当番屋敷」と呼ばれ、「表」という屋号が多い。「表」は株の本家を指す場合が多く、それは村の草分けの家であると伝えている例が多い。名株廃止後の当番は部落単位に氏子が7組みに分かれてクジ引きで選出されており、祭の2日前には今も当番宅の庭に「おはけ」立てられる。例祭の「宮上がり」の時、神社へ担いで上がり、当渡し後、受当がいただいて帰って1年間自宅の庭に立てる。 |
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