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神社検索(岡山)

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皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と県神社庁が共同で制作しています。
平成5年に神社本庁が作成した「平成の祭」CDのデータを補助的データとしても使用しています。
基本システム制作:皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会
エルネットワーク(株)
主催者:現代日本社会学部教授 新田均  顧問:落合直人
問合せ先: 神社史研究会 副会長:落合直人

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詳細情報

神社ID/コード285877308058 画像収集中
神社名/通称美和神社
(フリガナ)ミワジンジャ
郵便番号701-4262鎮座地瀬戸内市長船町東須恵1064
氏子地域長船町(東須恵、西須恵)
電話番号FAX携帯電話
主な祭典元旦祭 祈年祭 秋季大祭祭典日1月1日 3月9日 10月10日
特殊神事
お知らせ祈年祭に祈卜の特殊神事あり早稲、中稲、晩稲、芋、大豆、小豆等の作柄を上、中、下のクジで占う。 秋祭前に神職、祷主が海岸で禊ぎ行事を行う。
旧社格郷社式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館その他
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神大物主神
フリガナオオモノヌシノカミ
御神徳
由緒 当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。  勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166メートルの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。  当社は永禄年中(1558~1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。  「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」   主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。  すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。  慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。  10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。   広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。  当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。
駐車場有無台数30トイレ
記載
最寄駅岡山ブルーライン邑久ICから北東に車で4分
名所・名物
地図
HP(主)神社写真/HP(副)
                            御影
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