由緒 | 当社は延喜式神名帳(927)に記載されている古社で祭神は大物主神である。当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)から勧請したと言われてる。 勧請年月は明らかではないが、この地に移住してきた須恵器の陶工集団と深い関係があると言われているので7世紀前後のことと思われる。ご鎮座の場所は標高166メートルの広高山の山頂である。広高山は三和の峰とも呼ばれていた。 当社は永禄年中(1558~1570)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われている。明治3年にもとの美和神社に復称し、今日に至っている。社宝に文字瓦(長船町重要文化財)がある。この瓦には次の文字が彫り込まれている。 「天正13年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」 主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」である。 すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美和神社の別当である。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかる。 慶安元年(1648)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3基、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する馬が9疋となっている。当時の祭典がたいへん盛大であったことが窺える。 10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りをする行事が大昔から現在まで続いている。 広高山には神功皇后の愛馬「白鷹」の伝説がある。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩されたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸した。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死んだ。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり、後に「広高山」になったと言われている。 当社の東にある榊谷という深い谷に「美和の井」という井戸がある。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの井の水を調進す」と記載されている。 |
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