由緒 | 当社は奈良春日大社の祭神と同一神であり、創立年月日は明らかではないが「神護景雲年間(767~770年)に再建」と元和3年(1617年)丁己5月の棟札に記されており、「往古は鹿歩山明神 稲の神稲津明神と唱えられ、社檀十二宇、本社五社、社領田十八町歩、社家数多くあった」と口碑に伝えられているが、後に五社大明神と改められ、慶長19年(1614年)3月に社宇外焼失により再建され、後に明治2年鹿忍神社と改号された。当社は往古鹿忍荘内五か村の産土の神として祀られており永仁元年(1293年)8月の鹿忍大明神縁記に依れば、弘安の役に奇異の霊験があったと言う。山田彦命は猿田彦命の第二王子であり。中臣連時風秀行を供として、夜々鹿に乗り竿濱千斬稲津崎之星の如く遷らせ給ひ、異賊を退治し給う、この時矢が多く流れてその矢は明神の北の山に埋め矢塚と言う。宮山を鹿歩山と申し地名を鹿忍と名付けられた。また、竿濱を矢寄ケ浜と呼び、岡を星ケ岡、宮前、飯田、御供田、神楽田、勝負田、鹿伏、稲津崎、舛原、米倉などの字名が伝わっている。慶長年中(1596~1615年)には金吾中納言殿より社領十三石が寄付され、また寛文年中(1661~1673年)には池田光政公より、社領一石家禄二石八斗が寄付され明治5年まで受頒していた。、 |
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