由緒 | 当社の創建は不詳であるが、弘安8年(1285)吉備の金剛寺(現普賢院)に於いて書写された「本国総社神名帳山本氏本」(岡山県立図書館蔵)に、従4位上徳藏明神と記されてる備前国128社、津高郡12社の中の1社である。 国府の力の弱体化した平安時代末期、備前総社に合祀された。その後御鎮座地の徳倉山上に城が築かれ(太平記-高師秀居城)以後、守護職松田氏に協力したが天正13年松田氏、慶長8年宇喜多氏の滅亡によって、侍達は帰農した。慶長8年池田忠継が岡山城主になり、当神社復活の功労者日置家には、金川の領地が与えられた。「備前国中神社記」に春日明神-河内村-神主江見清右衛門-縁起申伝無御座候-延宝3年9月とある。 神社請願の連判状と正式に行った鎮座祭の朱色の紋様図柄の奉書に七曲神社の宮司小神隅椽の延宝5年11月吉日で始まる祝詞が、神職の江見家に現存している。 備前法華の地でいずれの神社も影響を受けたが、本地垂迹的な備前総社(改編岡山市史古代編に取り上げられるまで無名)の衰退によって資料に恵まれなかった。光政公が日蓮宗不受不施を邪宗としたこと。七曲神社の摂社とし春日明神の勧請を実現し神社がよみがえりに尽力した日置忠明を忘れてはならない。明治2年、郷社の指定を受けた。 |
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