由緒 | よしのやま花のさかりは限りなし青葉の奥もなおさかりにて 上千本のさくらのしげみをくぐって水分の社から爪先上りの道を登ること約一粁余で、金峯神社に着く。松林の急坂を登りつめたところ、眼下に拡がる台地は一面にさくらの青葉につつまれ、その正面奥の木の間がくれに拝殿、左に社務所が見える。近年開通した下の千本ケーブル終点から定期バスやタクシーを利用すると、約20分で金峯神社下か社前に着くことができる。春もいよいよ深まって、おちこちの花だよりも絶えるころ、この社前に名残りの花を惜しむによく、やわらかくもえでたさくらの若葉に、たけなわの春の気を一ぱいに味わうのもよい。夏は標高八百米のここの土地から、涼しい深山の霊気に触れながらうぐいすの音が聞ける。ここの風情は格別である。殊に社の森一面を埋めた秋の紅葉や、ずっしりと降りつんだ雪の深山道を通り抜けて、この神前や隠塔に7百年の昔にかえって九郎義経の心情を偲ぶのも感また一しおである。一、祭神 金山毘古神 古事記によると、伊邪那岐神が火の神、迦具土神を生まれたとき「みほとやかえて病み臥せり、たぐりに生りませる神の御名は金山毘古神、次に金山毘売神」と記され、日本記には、一書に曰くとして「伊弉冊尊火神軻遇突智を生まむとしたまう時に悶熱懊悩、咽ぐたりて吐したまう此れ神と化為りましつ、名を金山彦という」とでている。悶熱懊悩とは、枯れ悩むという意味で、昔からこの神を生物の枯死を防ぐ神として崇敬された外、金峯総領の地主神として金鉱の山を掌る黄金の神として祀られてきた。二、沿革 創立年代は不明。林道春の神社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」とあるが、詳かでない。吉野八社明神の随一として、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼるのでなかろうか。 延喜式神名帳には、吉野郡十座の神社の中に吉野山口神社・吉野水分神社とともに連ね、三社とも大社に列せられて祈年祭はもとより月次、新嘗の二大祭には官祭を受けて案上官幣に預るとあり、金峯神社はさらに明神大社に列せられて相嘗祭には優遇されている。朝廷の崇敬あつく、文徳天皇の仁寿2年11月特に従三位を、清和天皇の貞観元年正月27日に正三位を、さらに後醍醐天皇は延元2年正月に正二位を加えられている。1.虫害排除の神としての金山毘古神 すでに述べたように、元々金山毘古神は生物の枯死を防ぐ神である。古代人には、高山への信仰があり、大和では金峯山を葛城山とともに七高山の一つとして教えられた。金峯山とは、吉野河岸の吉野山から山上ヶ岳にいたる一連の山々の総称であるが、昔から清浄せんような高山として尊ばれ、度々陰陽道の祭場に選ばれた。高山というのはただ単に高い山というだけでなく、俗塵の少ない清浄の地として、さらに神霊の降臨された神聖な山としてたたえられた。三代実録を見ると、中国の前漢で害虫のため五穀不作の時に被害のあった州や県内の清浄な処を選んで、害虫を壤う祭典を陰陽寮に命じて行わせたといういわゆる薫仲舒の祭法にならって、清和天皇が貞観元年8月3日と同5年2月1日に勅使や陰陽博士に命じて大和国吉野郡高山で虫害を解き壤う祭事を行ったとでているが、この神社で行ったものである。現にこの神社を中心に、社のすぐ東北方の陰塔付近や南西の愛染宝塔など、一帯に残る広大な屋敷跡は、平安朝期に数多の寺院堂塔が建立されて都の人々の高山信仰の中枢地として尊崇された清浄な霊域として栄えていた往事を偲ぶに十分である。2.金峯山の地主神としての金山毘古神 金峯の神は一名金精明神とも呼ばれ、金峯山一連の峯々の地主神として、金鉱を守護して黄金を司る神であった。金峯山については金鉱のある山として、鉱脈の存在を意味する宝の山として早くから世人に知られていた。奈良朝ごろは風土記的思想が流布されて、天然資源開発への関心が強く、鉱産物の発見や発掘が進み、金属文化の結実期だっただけに、精神的なあこがれの地として金峯山を弥勒の浄土と見たてられたこととも関連して、この山が若しかしたら金鉱の出る山でなかろうかとの半ば希望的推測がいつの間にか事実であるかのように、宣伝されて、「金の峯」となり「金の御嶽」となってきた。例えば、権記長保3年4月24日の条に「早朝惟弘来り伝う、昨夜予金峯山に請い金帯金剣を得、吉想なり」とあり、拾芥抄には「金峯山は皆黄金なり。深き山にすみける月を見ざりせば思い出もなき我が身ならまし(西行) 高根より程もはるかの谷うけてたちつづきたる花のしらくも(本居宣長)元亨釈書塵裏抄にも、聖武天皇が大仏鋳造のために箔を求められた時、金峯山が金山だから良弁僧正に命じて蔵王権現に申請させられた処、夢に「わが山の金は慈尊出現の時、大地に布くためのものだからと拒否され、さるかわり近江国志賀の郡水海の岸の南に一つの山があって大聖垂迹の地があるからそこへいって祈るようにとの告げがあった。そこで良弁は石山に草庵を構えて祈誓したところ、果せるかな天平21年3月、陸奥国から砂金が発見されて官庫に納めることができたので、天平に感宝の二字を加えて天平感宝21年といった由が記さている。 宇治拾遺物語には、七条の薄打がこの山に登って金をとり「この金とれば、雷、地震、雨降りなどして少しもとるものがなかったというが、何のこともないではないか、今後もこの金をとって生活費にあてよう」うれしさの余り、はかりかけて見ると18両あった。これを箔に打つと7、8千枚になったので、誰かまとめて買ってくれる人がないだろうかと思っていた矢先、検非違使が東寺の仏を造るために金を集めていることを聞いて大喜びで買ってもらおうとしたところ、件の金箔にはすべて細字で「金御嶽」と書かれていた。検非違使からこのことを知らされた別当は、驚いてその金箔を悉く金峯山に返還し、薄打を七条川原にはりつけ刑に処し、獄に入れたが十日余で死んだと書かれている。三、建物と付近の模様 拝殿の前に張られたあざやかなしめ縄の向う側に、またしても生いしげった熊笹にかくれそうな高い苔むした石段が見える。その頂上奥まったところが金峯の守護神の存す神殿のはずだが見えない。 山腹の拝殿は桁行3間、梁間2間、其の昔暴風雨のため倒れたので、旧吉野神宮にあった拝殿を移建された。神域は3300坪で社頭もかなり広い。社務所の左の釘抜門をくぐって下ると蹴抜の塔がある。此の塔の由来は今より1300年前大峯山と云い又山上岳とも云う。山を開かれた役小角、即、役行者と云う僧が山を開く迄に塔の場所で3ヶ年間修業をなして後に開かれた事に成って居る。其の後弟子の僧が出て、師匠の徳を偲ぶ為に一基を建立して、今後大峯山へ登る修験者は必ず皆師匠と同じ様に修業して登る様にと、昔から伝わって現在に及んだので有る。元弘当時、付近の宝塔院が大塔宮の本陣となって居たが焼け失せた時にも兵火を免れて付近の堂塔中ただ一基残された鎌倉時代優秀な建造物として国宝に指定されていたが明治二十九年惜しくも堂守の失過で焼失し、大正の初年再建されたものが今の建物である。文治年間、源義経が弁慶外家来などがこの塔内に隠れて一時難を免れたと云う。其の義経隠塔の名がある。又義経が塔を出る時屋根を蹴破て逃たから蹴破 |
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