由緒 | 本殿春日造。檜皮葺。主屋方2.1m。軒二重繁たるきを打ち、彩色を施している。寛正(室町時代)の棟札ありと伝えられるが、現在その所在不明。江戸時代初期の建築と考えられ、重要文化財につぐ貴重な神社建築である。【五條市重要文化財指定第1号(昭和62年3月5日)】◎境内社☆八坂神社『素戔鳴命』☆天照皇太神社『天照皇大神』☆熊野神社『伊弉諾尊』☆春日神社『武甕槌神』☆八幡神社『誉田別尊』☆金刀比羅神社『大物主命』◎御由緒当神社の創立は、崇神天皇15年(西暦前83)と伝えられ、又、奈良時代、神亀5年(西暦728)藤原武智麿が神戸(神殿)を寄進したとも伝えられる。「延喜式神名帳」(延長5年西暦927年完成)にある阿陀比売神社は、本社であり、五條市内式内社11社の社の内に挙げられる、由緒ある古社である。当神社は、安産の神として、古来より信仰厚く、鈴の緒を戴き腹帯にする。男児を欲する時は、白。女児を欲する時は、赤。無事出産すると、新しい鈴の緒を奉納することが習わしであった。今日では、例祭に腹帯を祈祷し、総代宅に保管して授与している。御祭神木花咲耶比売命が皇孫瓊瓊杵尊にめされ、御子を産みます時、室に火をかけられた。炎の初めて起こる時生みませる御子をホスセリノ命、次にホアカリノ命、次にヒコホホデミノ命と「日本書紀」にある。“ヒメヒカケ”(後述)は姫が火をかけられた意に解せられ、安産を祈ることも、姫神のこの御安産に基づくとせられるのである。◎にえもつの里-書紀・神武天皇-水に縁ひて西のかたに行くに及びて、亦、梁を作ちて取魚する者有り。天皇問ひたまふ。対へて日さく、臣は是れ苞苴擔の子なりと。此れ即ち阿太のうかい部が始祖なり。-古事記・神武天皇-その八咫烏の後より幸でまししかば、吉野河の河尻に到りましき。時に筌をうちて魚取る人有りき。ここに天ツ神の御子、汝は誰ぞと問はしければ、僕は、国ツ神、名は贄持の子と日しき。【こは阿陀之鵜養祖】◎シメシカケノ森 神社の東方の森を「シメシカケノ森」(別名比売火懸の森)と呼ばれる森がある。前述の記紀のちなむ伝承である。◎タケヤ・タケガイト・チモリ へそのおを切った竹べらを捨てた所と伝えられる。更にチモリ(血森)などお産にかかわる伝承が多い。◎縄文・弥生・古墳時代の遺跡 当神社の周辺一帯は、考古学上でも極めて重要な地域であり、阿太一帯に、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が点在している。「ニエモツノ里」阿太は、阿陀比売神社と、古代史にかかわる興味深い伝承と遺跡の田園地帯なのである。 |
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