由緒 | 天満神社は桜井市大字吉隠小字宮ノ下に鎮座し、祭神は菅原道真公を祀る。当社は、吉隠東谷の中腹に位置し、氏子数は概ね35戸である。吉隠の地は、東西に吉隠川を隔て山が迫り山峡に漸高の地形をなし、古から知られた所で、日本書紀に持統天皇即位十年の条に、莵田の吉隠松が下に行幸し給ひしことが見え、当地は由緒ある所として知られる。当社の勧請年代は詳かでないが、境内には廻り1丈以上の老杉数本あるを見れば実に旧社であることを知る。菅公薨去、全国各地で雷の震災あり、世にこれを菅公の祟りなりとして恐れ、各所に社を建て避雷を祈ったとあるを見れば、当社も或はこれを以て祀られた所以とも考えられ、京都北野天満神社の御分霊を奉遷したのではないか、当大字は昔より長谷八郷の一にして、長谷寺の旧領地である瀧蔵神社の郷であって長谷寺に倣い、その時代において震雷を恐れ、初瀬與喜天満宮の御分霊として崇拝したその證として昔より與喜天満神社の大祭に関係あり。当地は伊賀、伊勢に通ずる街道であり、光仁天皇の准母紀橡姫がこの地に隠遁され、遂に崩御された。四方山に囲まれ、まことによき隠れ場所であると申されてから、従来の呼称を吉隠と改称したのだといわれている。大和志料、万葉集に見える吉隠山、猪飼の岡や浪柴野にまつわる、天武天皇の皇女但馬皇女は穂積皇子に高市皇子の宮に在りながら思慕の情をよせられ、穂積皇子も自分の兄の高市皇子の妻である但馬皇女との道ならぬ哀しい恋を、その皇女の亡きあとも心が冷たくなるような思いで偲ばれし旧跡として有名である。昔は、この地は栄え人馬の休息や交替させる場所であったといわれている。 |
---|