由緒 | 長谷山口神社は、桜井市大字初瀬小字手力雄に鎮座し手力雄明神ともいう。古代は、隠口の泊瀬小国と称せられし大泊瀬山、小泊瀬山の長谷渓谷に位置し、風光明媚な所として知られ、和名抄には「長谷」といい「はつせ」とも呼んでいる。長谷小国地方を一郷として長谷郷と呼ばれていた。初瀬の語源は、古事記によると「初瀬川猶遠ければ此の地ぞ上瀬なれは初瀬か」とある。当社は、手力雄命を主神として大山祗命を併せ祀り、延喜式神名帳に「長谷山口神社」と見え、神社明細帳に「祭神大山祗神、天手力雄神、豊受姫命、貞観元年正月授正五位下」とある。豊山玉石集には、手力雄明神、大泊瀬山の西南の尾崎にあり、延喜式神名帳に「泊瀬山口神社という是なり」と、中世手力雄命を主神となし、大山祗命を配祀せり。然れども、当社は六処山口社の其の一にして、即ち長谷の山霊を祭れる所なれば、もと大山祗命を以て主神となすべきなり、其の手力雄を祭り、且つ地名をも手力雄とする由来は詳ならず、云云と記されている。或は仁平2年7月の裏書ある長谷勘奏記に依り、中世神座を転じたるものにあらざるかとも書かれている。いわゆる、延喜式内社は醍醐天皇の延長5年(西暦927)に作られた延喜式神名帳に記載されている神社をいう。大古より長谷山の鎮として大山祗神を祀り、聖武天皇の天平2年(西暦730)の大和大税帳には長谷山口神社の名が見え、当神社の古いことを物語っている。長谷寺縁起文や古文書には、此の地は古くは三神の里といい、河を神河という。表参道朱塗の橋には神河橋と書かれている。垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地に倭国伊豆加志本宮、また磯城厳橿の本ともいわれ、8年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、当時、随神とこの地に天手力雄神、北の山両部山中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。長谷寺験記の冒頭には、長谷寺開山の時の天手力雄神の霊現と功徳が述べられている。近世になり、明治41年初瀬平田の両部山南端の山麓の老松(「ようがの松」とよばれている)の附近にあったといわれる豊受神社に豊受姫命を祀っていたが、長谷山口神社に合祀され保食神で五穀豊饒の神として崇拝されている。 |
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