由緒 | 天照皇大神社は、桜井市大字小夫嵩方小字山ノ神に鎮座し、祭神は天照皇大神、配祀神大山祗神を祀る。社伝に、天照皇大神宮鎮座は、小夫天神社に座、天照皇大神宮の御分靈を遷し奉りしと伝う。小夫嵩方分離は元享年間の頃といい伝う。天照皇大神社御由緒調査書、明治三十九年八月調によると、元享元年(元享年間は4)より明治39年まで604年を経るとある。当社の境内に杉一丈七尺廻りの大木あるを以て按に300年以後の神社たる事明らかなりと記録されている。小夫嵩方は、真平山脈の頂上にあたる地勢により嵩方といい、大和川の源で美わしい山紫水明の地である。古代倭における磯城から山辺の境界線上にあたり、大倭郷と呼ばれた高天原の聖地で、天照皇大神社の敷地山ノ神につづく笠神は、倭笠縫邑の聖地にして小夫の笠神と並び元伊勢縁の地である。天照皇大神の鎮まる古代の小夫地方は元伊勢の発祥地であり、御山と称せられし奥の鎮は中岳と並ぶ神山で、巨岩があり近隣の割石神社とは古代の磐座である。神の郷の故地として倭、大和の発祥地であることから近郷にはない社名であり、神聖なる地形から天照皇大神社として奉斎されし所以である。往時の神の郷は磯城峡谷の隠国とも称されてきた。泊瀬川を逆り峠を越え小夫より寝地蔵、奥の鎮、笠神、割石、真平山、中岳、貝ヶ平山に通じ、山岳信仰、太陽と水神の信仰盛んなりし跡がうかがえるのである。貝ヶ平山、真平山は大倭郷の線上に位置し、太陽神影向の山、日の出の山と称されてきた。真平山脈より出づる細流は清き流れの渓流となり、万葉の昔は聖なる山の聖水の流れで神の河日の河と呼ばれた泊瀬川は、大和川となって豊富な水資源は潅漑用水として、水穂国として農業に大きな役割を果し、農林産物の宝庫となった。 |
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