由緒 | 平安朝の初期、延長5年編集の延喜式の神名帳に大和国山辺郡の小社に「出雲建雄神社」が記されている。この神社について「大和志」(享保20年刊)は「出雲建雄神社在所未詳或曰在藺生村今称葛神社即此」と記し、出雲建雄神社は藺生の葛神社のことであるとしている。都祁地方には九頭・国津を称する神社が多く、国津神を祭神とし同時に祀雨神ともなっている。当社もこれと同様、何時頃からか葛神社と称したものである。この藺生の地は大和で最も早く開けた地であり、大和朝廷の時代においても初瀬川の水源地として、初瀬川を通じて、平野の村々と交渉があり、藺生には初瀬川の水を調節する大溜池が築造されていた。聞書覚書(享保14年記)に「藺生村昔は池地にて長谷川48井手の溜池にて6月朔日48石地子48荷の酒肴持来り泊瀬の祭有之由申伝る也泊瀬社と云祠旧堤有之、旧く跡有、池底3丁余に56丁程の沢なり、次第に田となる、堤長さ3丁余」今は並松の堤と言也池の堤に女郎塚、馬塚とて2つ塚あり所に言傳うるは昔この堤を築くに宇陀郡東郷の娘馬にのり嫁入りに通るを嫁馬共に生き乍ら堤に築こもると言う仍て東郷が池と言う今嫁入りは不通脇道を通る也。堤築造について人柱伝説をも記している。この池は中世荒廃して池底に藺繁茂し、藺生庄と称したといわれる。この泊瀬社の祭わ村人は「泊瀬の建男祭」と称したという。この藺生の南、上の宮の地に出雲建雄神が祀られたのは古い時代のことである。水の神として出雲建雄神信仰であり、葛神(九頭神)信仰であった。平安時代の中頃当地方に興福寺喜多院二階堂の荘園、山内7庄が成立し、藺生庄もそのうちであった。鎌倉時代の初め藺生庄の下司は文屋宗遠であった事が水分社縁起に見られる。染田天神文書には「ヤマノヘノコヲリヰウノシヤウ七郎名」の田地を僧教円が「リヤクヲウ3年カノトノミ正月24日に売渡した事が知られ、貞和3年2月の興福寺造営料反米注進状には「藺生庄7町2反小」と記され「藺生庄」の名が見られる。聞書覚書には「・・・此村(藺生)宮侍座法式永享4年より当年迄300年が間、一年も無中絶送る書物有、此内改見れ共右の所に不知、亦氏神の棟札に300年に及び札々夫にも右判け見え不申此札には梵字も本地何仏無之・・・」とあり、宮座文書と棟札とが、享保年間より300年以前のものが残されている事を記している。しかし神社には宮座文書は今に残されているが、棟札は失われている。 |
---|