由緒 | 闘鶏国造が置かれていた、古代ツゲ国の中心地、つげ平野の東方・水湧庄の中央丘陵・字神子尻に大きな白い石があり、古代の信仰を集めていた。国つ神として崇敬せられ、社殿を建立、国津大明神と称せられた。平安時代後期「山内7庄」として興福寺喜多院二階堂の荘園が成立し、その中で水湧庄は最も耕地の反別多く有勢であった。荘園は2つに分けられ、北側を水湧庄、南側を白石庄と称された。白石庄とは国津大明神の白い石より名付けられたのである。水湧白石両庄共耕地は31町大となっている。平野の東方に聳える2つの山は、雄神山・雌神山として、これ又古代人信仰の中心であった。古来より村人は「ののさん」(信仰神の方言)と言い、野々神岳(雄岳550、6m、雌岳531、5m)と称される。古代信仰の靈山で三輪神社の奥の院ともいわれる。山頂には石室があって白い大蛇がすんでいるといわれている。御神体は雄神山そのものである。したがって拝殿だけで本殿はない。県下はもとより大阪・和歌山・三重などに信者が多い。雄神神社と国津神社の間には、「休んば」と称されている4ヶ所の叢林が残されている。神様が往来に休まれたところと称され神聖叢林である。国津神社より西方山麓に八阪神社が鎮座している。祭神は素盞嗚命で祇園精舎の主護神であり、牛頭天皇さんである。村の北方に鎌倉時代より水湧氏の掾りし城址あり、その北方山麓に八王子社といふ小社が祀られている。祭神は素盞嗚命の5男3女の王子を祀っている。社の左傍に井あり、湧水が流出して城址の水堀に灌いでいる。水湧庄の庄名の出たところである。文暦2年(1235)3月22日付の僧聖俊田地譲状(東大寺文書)に「やまとのみわきの田」とあり水湧の荘名がみられる。享保9年北弥兵衛吉品の記に「百石村八本名水湧庄ト申ス由古キ文ニ見エ申候」と記し、法然上人の弟子源智上人が、水湧庄阿弥陀院に居られた事を記している。神子尻の白石大明神は、国津神として水湧庄、山内7庄の尊崇を受け、本社殿の左に末社春日神社(天児屋根命)厳島神社(市杵島姫命)があり、外に両大神宮、穐葉大権現、熊野大権現も御まつりされている。境内は広大にして樹林繁茂し、社務所が建てられている。西側の社務所は旧神宮寺の跡にして、神宮寺の本尊不動尊像十羅刹女像がある。書写経の大般若経も600巻所蔵され、578巻には文明6年11月1日此陀羅尼「転并切句畢」筆者顯舞の署名がある。 |
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