由緒 | 櫟本の治道山、字宮山に鎮座し、素盞嗚尊(中)と大己貴命(一名大国主神)(左)と稲田姫命(右)の三柱を祭神としている。今より1070余年前に藤原時平等が醍醐天皇に献上した延喜式神名帳に「和爾下神社二座」とある。大和志(享保21年関祖衡編)には「和爾下神社二座、一座ハ櫟本村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク下治道天王ト号シ、近隣11村共ニ祭祀ニ預ル。」とあり、また大和名所図会(寛政3年秋里籬島輯)にも「和爾下神社二座、横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す、神名帳に出」とある。新撰姓氏録考證(栗田寛著)には「奈良朝神社注進状に據れば和爾下神社の神官は櫟井氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座なり」とある。共に櫟井臣・和珥臣の祖神であり、明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑前の其筋へ差出した記録には旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。新撰姓氏録によれば「櫟井臣、和爾部同祖、彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)柿本朝臣、天足彦国押人命の後なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり。」とある。しかるに時代移り現在の祭神は神社明細帳に本社大己貴命(一名大国主命)素盞嗚命・稲田姫命をまつり秋祭は10月14日、若宮は事代主命とある。素盞嗚命、即ち牛頭天王として崇め7月14日を祇園祭として賑わうのである。東大寺要録には神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れる水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流するよう河川の造り替えをし道路をも改修した。12月10日に工事を初め翌4年4月1日に竣工してこの森を治道の杜といい神社を治道宮といった。寿永2年(1183)藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が著わした柿本朝臣人麻呂勘文には「添の郡石上寺の傍に祠有り治道社と号す、祠の辺の寺柿本寺と号す。是人麻呂建つる所なり。祠の前の小塚人麿の墓と名づく、清輔往て之れを観る所謂柿本寺の礎石僅に存す人麻呂の墓高さ4尺許り、因て卒都婆を建る云云」とある。今から780余年前に「治道社」の名が見える。治道山柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土している。和爾下神社の石燈籠にも「治道宮天王」(元和元年銘)とあり、鳥居の古額にも「治道宮、黄檗南源」とあった。現今のは文秀女王の御染筆で「和爾下神社、大和式部」とある。大友文書によれば建武4年(1337)6月26日南都警固の狭間正供・出羽泰貞等が天王山(治道社)と柿本寺に陣取って南朝軍と戦うこと3日、南軍敗れて遂に櫟本は北軍の領となった。時に北軍に櫟本春徳丸の名が見える。秋祭渡御の御神刀の鞘に朱字で「奉寄進牛頭天王御宝前(貞享元)」とある。本殿は3間社、流れ造り桧皮葺き1間向拝づき、桃山時代の特色のある極彩色の優美な建築である。昭和13年7月13日附で国宝建造物に指定され現在は重要文化財である。古記録によると慶長年中(1596-1614)の本殿改造以来、屋根替葺は寛永・寛文・明暦・元禄・宝永・享保・寛保・宝暦・明和・安永・文政・天保・明治20年・昭和13年・同46年の15回が記録されている。天保13年度の本殿屋根替代は銀1貫66匁・9月晦日より日数48日、11月17日上遷宮とある。明治27年11月に若宮拝殿が建ち同29年4月13日に本社拝殿が落成している。昭和46年10月本社屋根替と拝殿改築、社務所の新築が行われた。昔は細男座・田楽座・御輿座の3つの宮座があった。各々の頭屋では10月12日御供つきがあり14日には各頭屋から素襖を着た騎馬の御幣頭人、青竹をついた羽織袴の警固は荷前・騎馬姿の甲冑を従えてお仮屋の陣屋へ入り渡御の時には神輿のあとからついて1キロ西の二つ鳥居のお旅所まで渡ったのであるが昭和19年から全く簡略になったのである。 |
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