由緒 | 当社は、奈良県大和郡山市城内2-18に鎮座しており贈従三位柳澤吉保公を祀りしている。公は亡伯爵柳澤氏の中興の祖にして清和源氏新羅三郎義光の後裔(こうえい)なり。公は松平美濃守と称す初武蔵川越の城主として後甲斐の国主(甲府城主)となる。従四位下左近衛少将に叙位せられ五代将軍徳川綱吉公の輔弼(ほひつ)にして執政中の上首に列して元禄宝永の時を双肩に負荷して縦横の手腕を揮ひし一世の俊傑である。畏くも先帝陛下(大正天皇)御践祚(ごせんそ)に際し吉保公の功績を聞召されて特に位記追贈の恩命を下し給ふに至った。今其の事迹(じせき)を詳述すると次の如し。公夙に勤王の志篤く皇室を尊び給ふ。 一、大じょう祭 大じょう祭は、天皇即位の後始めて新穀を以って天神地祗を奉祭し給ふ一世一代の大典にして御即位後必ず行ひ給ふを以て践祚大じょう祭とも言ふ然るに後士御門天皇の文正元年11月行ひ給ひしより東山天皇の貞享4年11月に至る222年間に於て践祚九回ありしも大じょう祭は行はれず年久しく廃絶せるを東山天皇におよび復興せられたり。二、加茂祭 加茂祭は、勅祭を以て行はる其の盛儀の荘厳優美なること無痩(むそう)の盛典と稱せらる。然るに後士御門天皇の文正3年4月まで行はれしがその翌年応仁の乱後228年間廃絶せられ東山天皇の元禄7年4月再興せられたり。三、歴朝山陵 数々の兵革を経て概ね無没し往々人士の崇敬するを知らざるを概嘆上疏して之を修陵し新に周垣を作り行路人をして而前尊王心を喚起せしめ大義名分を覚醒し大いに偉績を挙げ其の功至大なり。四、武蔵野開墾 吉保公が元禄7年正月武蔵野の荒野を開拓して幾多の新田と菜圃(なばたけ)とを作り頻りに産業を奨励して窮民の救助に努め或は封内諸所の社寺を修営し庶民崇拝の念を功さしむるが如き領主施政の用意みるべきものあり。五、今一事 逸すばからざるものは宝永2年正月吉保公台旨を奉じて禁裡御所の雑用中に米1萬石を増進して用途に充つるが如き欺る勤王の事業は徳川300年治世中空前絶後の美挙を以て稱誉せらる。大正元年11月19日大正天皇御践祚に際し特に従三位を追贈せられたり。創立明治13年6月1日創立なり。例祭11月2日。 |
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