由緒 | 県南の奈良県吉野郡吉野町津風呂から、奈良市平城宮跡北郊の現在地に集落をあげて移ったのが昭和34年のこと、戦後の国土開発に伴う津風呂ダム建設工事(昭和36年完成)で湖水下になるため集団移住を余儀なくされ古くから住民とともあった。当社も本殿、拝殿、社務所を移築、御神体を奉遷したのが同三十七年である。もともとのツフロの地名は「万葉集」に見えるツブリ(津振)であり1300年ほど前、大海人皇子(天武天皇)鵜野皇女(持統天皇)とが吉野離宮からオトゲ(御峠)を越えてこの地に致り隊位をととのえて宇陀から伊賀伊勢へと出陣せられた、世に言う「壬申の乱」の出発点にあたる、この時のこの地の先人達は、皇子の車駕につき従ったと伝えられる。中世南北朝時代の初め南朝の忠臣、*尭観の執事であった津風呂筑前の守從五位上平朝臣光秀入道覚佛が治水産業をすすめ天武天皇ゆかりのこの地に鎮守の神として、春日四柱の神を祭り五殻豊饒と村の繁栄を祈念した。爾来津風呂は龍門の邑となり、神の守護のまにまに桃源境として永く繁栄と平和を続けてきた。元の吉野の鎮守の宮は廻り1丈2尺もの杉十数本、その他大木に囲まれる地に、分祀社として今も祭祀を続けている。この神社のサカキカズラは昭和28年3月に奈良県教育委員会から県文化財に指定されている。現在の奈良市津風呂の当神社も奉遷以来、30年荘厳な鎮守の森として御神木も大きく成長している。氏子の中の当家は(宮守)毎年10月1日に決められているが男がいない家または病気の家は宮守をしない、宮守は町内親類友人等の葬儀には出席するが、その家の食事はもちろん茶ものまないし、もし家内に不幸があった時は任期途中でも必ず交替することになっているが、宮守の当たった年はその家に良い事があると今でも信じている。 |
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