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詳細情報
神社ID/コード | 2929 | 4214012 | |||
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神社名/通称 | 高茶屋神社 | 粟嶋さん | |||
(ふりがな) | たかぢゃやじんじゃ | あわしまさん | |||
郵便番号 | 514-0819 | 鎮座地 | 三重県津市高茶屋 1-29-27 | ||
電話番号 | FAX | ||||
主な祭典 | 飯蒸祭(はんむしさい) | ||||
宮司名 | 小林 一茂 | ||||
旧社格 | 村社 | ||||
連絡先 | |||||
主祭神 | 《主》玉柱屋姫乃命,《配》素戔嗚神,速玉男神,富姫命,五男三女神,宇賀之御魂神,大物主神,大山津見神,火産霊神,経津主神,誉田別命,水象女神,枚男命,木花咲耶姫命,少名彦奈之神 | ||||
ふりがな | たまばしらやひめのみこと | ||||
御神徳 | 医術 薬師 平癒祈願(へいゆきがん) | ||||
由緒 | 道路沿いに静かに佇む高茶屋神社。 人々の間では、通称、粟嶋さんと呼ばれ親しまれています。 高茶屋神社は、伊勢神宮、内宮から12kmほど行ったところにある志摩伊雑村の神である、伊佐波登美命の奥方、玉柱屋姫命を祭神としています。 今から1190年前の824年第53代淳和天皇の時代、一志狭山枚男という人が伊雑村の祭神をこの地におまつりし、栗嶋神社と称したとされています。粟嶋神というのは、そもそも15 0 0年前、粟で作られた船で航海の折、紀州灘佐之郡という所に漂着し、この神、粟嶋大明神をまつったところ、人々の病を治したというので、病を治してくれる神様、または薬の神様として今に伝えられています。その昔、高茶屋神社は、玉柱屋姫命の祭神のほかに九ヶ所に祠が奉られその祭神をあわせて、十社宮と呼ばれていましたが、後に、十社杜、粟嶋神社そして、明治41年に合祀し、高茶屋神社と、改めました。 鎌倉時代、津市には神宮領である御厨・御園が、20近くありました。現在の津市小森にあった小杜御厨も、その一つで、高茶屋神社は、4ヵ月に一度神に塩を献上する神社として指定をうけていました。また、現在の高茶屋神社の東側のあたりは、その昔、海で伊勢神宮へ向かう参拝者はここで休憩をとり、その海でとれた海産物をお参りに行った際の手土産にしていたのだそうです。 ところで、現在も伝わる神事として、全国的にも珍しいという飯蒸神事が、1/8にとり行われました。この飯蒸神事というのは、何百年も昔からこの地域に伝わる食生活の祭りで、毎年1/8に行われています。高茶屋小森町内の10軒の家が、それぞれ糯米をせいろで蒸し上げ、いわゆる白蒸しのおこわにします。その間、高茶屋神社の宮司が、各家を順番にまわり、蒸しに使われているかまどのおはらいが行われます。その後、高茶屋神社に参り、おこわを奉納し、10組が揃ったところで神事が始まります。そもそも、神様に供える米を清めるという意味で始まったそうですが、この地域はその昔火災がとても多く、この神事を行うことで火災が無くなったことから防災の神事ともいわわれています。また、煮立った湯に笹をつけておはらいをする湯立て神事は、厄よけや長寿を願うおはらいをはじめ、家内安全、無病息災の意味が込められています。湯立ての笹は厄よけの証として、行事が終わった後、参拝者によって、奪い合われ、それぞれの家へと持ち帰られます。神事には毎年地域に住む500名近くの人々が訪れ、正月を共に迎える・・・。このように、高茶屋神社は、周囲の人々に守られ、長い歴史を越え今に至るまで、人々の厚い信仰を集めています。 西島八兵衛翁について 慶長元年遠州浜松に生まれ藤堂高虎公に仕えていた。寛永20年伊勢国一志郡一帯は稀に見る大旱魃で、水田の稲は皆枯死し収穫皆無で久居津の農民は、餓死寸前の有様であった。それから3年後の正保3年も又凶作で領内の農民は、生きた心地がしなかった。当時の藩主藤堂高次公は江戸にあってその事を聞き、農民の急を救わんと兼ねて信任するところの八兵衛に命じ、井堰の改良と溝渠の開発に着手完成したのが雲出川であり、私共の大恩人であります。翁は治水開拓者であったが、築城家でもあり又庭園作りの名人、能筆家で晩年に至っては詩人でもあった。万治元年城和奉行として伊賀に転じ85才で没している。今も尚伊賀上野紺屋町正宗寺に葬られ、大正4年正五位を追贈されている。翁をお祭りしている津市高茶屋小森町の水分神社は昭和47年津市教育委員会により津市史跡に指定されている。 | ||||
特殊神事 | |||||
氏子地域 | 高茶屋1・2・3・4・5・6・7丁目 | ||||
宮司記載 | |||||
HP(主) | |||||
御影 |