由緒 | 御祭神光仁天皇皇后(聖武天皇皇女井上内親王)奈良時代、大仏建立などの大事業を進められた聖武天皇の皇女として、717年にお生れになり、721年、5歳にして伊勢皇大神宮に斎宮として出仕、任終えて後、白壁王の妃となられました。770年、白壁王(62歳)即位、第49代光仁天皇となられ、同時に内親王(54歳)は皇后になられ、翌年、御子他戸親王(11歳)も皇太子となられました。けれども、翌年、巫ごの罪(巫女に天皇を呪う祈祷をさせた罪)で皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。更に翌773年、厭魅の罪(人を呪う呪いをした罪)で親子共に、流罪となり、大和国宇智郡の没官の宅の土舎に幽閉されました。奈良時代末期の混乱と政権争いの中で、光仁天皇妃高野和新笠の御子山部親王(後の第50代桓武天皇)を擁立する、藤原朝臣百川の策謀によるものと伝えられています。775年4月27日、母子とも逝去されました。又、配流のこの地で、御子をお産みになったと伝えられ、若宮火雷神として御山町に祀られています。没後、都に天変地変相次ぎ、悪疫流行したため、母子のたたりと恐れた天皇は、翌年、600人の僧に金剛般若経を読ましめ霊を慰められました。翌777年、勅使を当地に差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いて守護させました。その後、800年に勅使葛井王下向し、皇后の位に復し、霊安寺に御霊神社が建立されていくこととなります。(『御霊信仰』の起源)1238年嘉禎4年2月、吉原・牧野両豪族の論争がきっかけとなって宮分けが始まります。御霊信仰が、盛んになり、宇智郡一円の氏神として、信仰をあつめるようになると、身近な所に御霊さんをお祭りしたいと願うようになってきた為、宮分けがすすみました。現在五條市内に祭祀される御霊神社は20社にのぼります。当黒駒町に鎮座する御霊神社は、1238年、最初に宮分けがおこなわれた11社の内にあります。当地に伝わる宮分け伝説によると、「阪合部地区の氏子は、当初犬飼に分祀する予定であったが、黒駒の落杣神社のあたりまでお渡りしてくると足が動かなくなり、この地に祀るようにと言う神意であろうと考え落杣の森にお祀りすることになった。」と伝えている。御神体が、箒などと言われることがありますが、古来、箒は、神の宿る神籬と通じていたためで、決して粗末な物の意ではありません。勿論、現在の御神体は、神像であります事を付記いたします。 |
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